長久保城
- 訪問日 2018年3月22日
- 所在地 静岡県駿東郡長泉町
- 平山城
- 築城者 竹之下頼忠?
- 築城年 平安時代末期頃〜鎌倉時代初期?
築城時期や築城者は不明であるが、大友親頼の三男親政が、永享11年、足利持氏の滅亡により、今川氏に仕え駿河国駿東郡長久保を領していたため一説には長久保氏の築城とも言われる。とのことであるが、現地の石碑によると 現在の静岡県小山町竹之下を領していた竹之下頼忠が北条氏や牧氏への備えとしてここに砦を築いたのが始まりとなってる。
戦国時代、今川氏、北条氏、武田氏との間で争奪戦が繰り広げられた。
天正10年(1582年)、武田氏滅亡後は徳川家康の持城となった。その後関東に家康が移封された後は、中村一氏の持城となったが、慶長5年(1600年)に移封されると長久保城は廃城となった。
1545年7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通し、北条氏綱(北條氏綱)に奪われていた東駿河に侵攻。(第2次河東一乱)
この時、北条勢の吉原城し自落し、北条幻庵(北條幻庵)が守る長久保城を攻撃したため、北条氏康は駿河に急行した。
そこを、上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏が大軍を持って9月26日に北条綱成が守る河越城を包囲し、北条氏康(北條氏康)は東西から攻撃を受けて、絶対的なピンチに陥いる。
そのため、北条氏康(北條氏康)は長久保城を明け渡す条件にて、武田信玄を仲介して今川家と10月下旬に停戦。
11月初旬に太原雪斎と誓詞を交して、北条氏康は河越城へと転戦した。
その後、長久保城は再び北条家の支配となるも、元亀年間(1570年~1573年)から1582年までは、1571年に深沢城の戦いで勝利した武田信玄・武田勝頼が長久保城や沼津・三枚橋城を領有している。武田家滅亡後は徳川家の領地になり、牧野康成が城主として入っている