たまそら登城録

2018年03月

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長久保城
  • 訪問日 2018年3月22日
  • 所在地 静岡県駿東郡長泉町
  • 平山城
  • 築城者 竹之下頼忠?
  • 築城年 平安時代末期頃〜鎌倉時代初期?
4城目は長久保城です
Wikipediaによると

築城時期や築城者は不明であるが、大友親頼の三男親政が、永享11年、足利持氏の滅亡により、今川氏に仕え駿河国駿東郡長久保を領していたため一説には長久保氏の築城とも言われる。

戦国時代、今川氏、北条氏、武田氏との間で争奪戦が繰り広げられた。

天正10年(1582年)、武田氏滅亡後は徳川家康の持城となった。その後関東に家康が移封された後は、中村一氏の持城となったが、慶長5年(1600年)に移封されると長久保城は廃城となった。
とのことであるが、現地の石碑によると 現在の静岡県小山町竹之下を領していた竹之下頼忠が北条氏や牧氏への備えとしてここに砦を築いたのが始まりとなってる。
城メグ公式でも築城は竹之下頼忠となっているが、解説はWikipediaのコピペとなっており訳が分からない
ていうか竹之下頼忠ってだれや って少し調べてみたんだが 竹之下にて館を構え、興雲寺を建立したとしか分からない
更に調べてみると大森頼忠なる人物を発見、この竹之下頼忠が大森頼忠と同一人物であるようである

大森頼忠は系図上大森家の初代当主と思われる大森親家の嫡男とされ、大森家2代目の当主とされる
大森氏は駿河国大森(現在の裾野市深良付近だと思われる)の藤原伊周の子孫とされる藤原親家が大森氏を名乗ったことが始まり
その後大森氏は駿東郡に勢力を強めていったのだが 竹之下頼忠=大森頼忠説を取ると 既に親家の子の代で既に足柄まで進出していたことになる そして長久保城が竹之下頼忠の築城となると既に大森氏の支配範囲が駿東郡全域に及んでいた可能性がある

故に竹之下頼忠の築城説を取れば大森氏の南に領地を接していた北条得宗家への備えとしで築かれた城であったと思われる

しかし実際に鎌倉時代に大森氏と北条氏が争った話は聞かないし、むしろ大森氏やその庶流葛山氏は有力御家人として重用されていた節がある

その後 室町時代に起こった永享の乱により関東の動乱に動じて駿河大森氏は西相模に勢力を伸ばしていき以後小田原を拠点としていくのだが、同時期、同じく永享の乱により大友親政が長久保に入り長久保氏を名乗ったようである。
しかし長久保氏のその後の行方は調べたところ分からなかった
どうやら長久保氏は今川氏の没落と共に嫡流は常陸国に土着し、江戸時代に農民の出にも関わらずその後水戸藩の地理学者として活躍した長久保赤水はその末裔を自称している
とはいえ、その後の今川氏の家臣の中に長久保氏の名前が今のところ見つからない、もう少し調査を続けたいが、そう一つの記事に長時間書けるわけにはいかない(既にこの記事書くのに丸1日かかってる)のでここあたりで机上調査を終えたいと思う

長久保氏は領したと言われる1440年頃であるが 1480年頃に大森氏庶流で駿東郡の国人衆でもある葛山氏が沼津郷への侵攻の際に長久保城を拠点としている

その後1537年頃の北条氏綱の駿河侵攻の際に長久保城を改修しているようである

戦国武将列伝Ω(https://senjp.com/nagakubo-jyou/)様によると

1545年7月下旬、今川義元関東管領上杉憲政と内通し、北条氏綱(北條氏綱)に奪われていた東駿河に侵攻。(第2次河東一乱)
この時、北条勢の吉原城し自落し、北条幻庵(北條幻庵)が守る長久保城を攻撃したため、北条氏康は駿河に急行した。
そこを、上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏が大軍を持って9月26日に北条綱成が守る河越城を包囲し、北条氏康(北條氏康)は東西から攻撃を受けて、絶対的なピンチに陥いる。
そのため、北条氏康(北條氏康)は長久保城を明け渡す条件にて、武田信玄を仲介して今川家と10月下旬に停戦。
11月初旬に太原雪斎と誓詞を交して、北条氏康は河越城へと転戦した。
その後、長久保城は再び北条家の支配となるも、元亀年間(1570年~1573年)から1582年までは、1571年に深沢城の戦いで勝利した武田信玄武田勝頼が長久保城や沼津・三枚橋城を領有している。
武田家滅亡後は徳川家の領地になり、牧野康成が城主として入っている
小田原征伐の際には長久保城で家康と秀吉が謁見し、軍議を開いたとの逸話もある

徳川家康の関東転封後は中村一氏が城主として入り、関ヶ原の後は廃城となった模様である

長久保城は黄瀬川の渓谷の西岸の小高い山に建っており天然の要塞出会ったことが窺える
しかし開発によって殆どその痕跡は残っていない

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長久保城跡の石碑

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長久保城の跡地にたっている城山神社

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城山神社自体は長久保城の階段状の曲輪があった所に経っているようである
裏に見えているのが曲輪なのかもしれない

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土塁もしくは曲輪の跡

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主郭は国道246号線に飲み込まれて存在しない

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沼津城
  • 訪問日 2018年3月22日
  • 所在地 静岡県沼津市
  • 平山城
  • 築城者 北条氏康? 武田勝頼 水野忠友
  • 築城年 1569年 1579年 1777年

沼津城は現在の沼津市中心部にあった城である。

一般的に後世の名称である沼津城として知られているが戦国期は三枚橋城と呼ばれていた

 三枚橋城の起源は1569年に北条家によって築かれた砦だと言われる。
この前年に武田家は今川家との同盟を破棄し駿河侵攻を始め、これに怒った北条氏康は甲相同盟も破棄、これにより甲駿相三国同盟が完全に崩壊。これによって武田家と北条家が敵対し、1568年~1571年にかけてここより少し東にある北条家の拠点、戸倉城を巡り武田家の侵攻が相次いでおり、それに対する備えといった面が大きかったと思われる。

 その後両家は和睦、再び甲相同盟は締結されるが、1578年に起こった上杉家の内乱、御館の乱にて、景勝を支持した武田家と景虎を支持した北条家で再び対立、翌年1579年に北条家への備えとして武田勝頼がこの地に三枚橋城を築城した。翌年には築城に携わった信濃松尾城主小笠原信嶺が三枚橋城に在番を命じられているが、それ以前に甲越同盟により北信濃の情勢が安定したことを受けて、海津城代春日信達(高坂昌信として有名な春日虎綱の次男)が三枚橋城代になっている。
 信達は1581年に北条家の戸倉城を内応で落としたが翌年2月29日に戸倉城が北条家によって落城。3月28日に武田方が城を放棄したため、三枚橋城も落城している。
 この時すでに武田家は滅亡しているが、それ以前に春日信達は甲斐国防衛のためと甲斐新府城に馳せ参じ、勝頼の側近で武田家没落の一因と言われる長坂光竪によって退けられたと言われるため、戸倉城落城の前後で既に三枚橋城を退去していたと思われる。また小笠原信嶺は本国信濃松尾城で織田方に寝返り織田信忠の軍に加わり高遠城を一緒に攻めている。

三枚橋城の開城後は徳川家の松平忠次は城主として入ってる。が翌年1583年に城内陣中にて死去している。
その後も徳川家の城として機能し、小田原征伐の際には拠点の一つとしても使われ、1590年3月に豊臣秀吉が入城した際に津軽為信が秀吉と謁見し、所領を安堵されている。

徳川家康の関東転封後は中村一栄が三枚橋城主となったようである

関ヶ原の戦いの後、大久保忠佐が2万石で三枚橋城に入り沼津藩が成立 しかし、1613年に忠佐が死去すると、嫡男も同年に父に先立って死去 していたこともあり、幕府は忠佐の八弟の忠教を忠佐の養子とし跡を継がせようとしたが、忠教は「自らの勲功ではない」と固辞し、結果沼津藩は断絶し、改易された。

その後しばらく城は放棄されたが、1777年に水野忠友が2万石で沼津に入り 三枚橋城の遺構を利用し沼津城を築城した 三枚橋城の北半分を再利用した非常に小柄な城であったと言われる。

梯郭式平山城で狩野川に隣接して本丸、その北西に二の丸三ノ丸が造られていた。天守に相当する三層の櫓を本丸に建て、二の丸に御殿を置いた。最終的には水野8代5万石の城下町として栄えた。

そんな沼津城だが、現在殆ど痕跡が残っていない、近世城郭としてここまで痕跡が残っていないのは珍しいと言えるぐらい徹底的に城郭が破壊されているため、言われなければここに城があったとは分からない

現在城の設備として残っているのは、とある敷地内に埋まっている井戸ぐらいで、他に堀があった跡を伝えてる案内板や発掘調査で見つかった石垣ぐらいである 本丸跡と伝わる現在の中央公園ですら後世に再開発されたものである。


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中央公園にある沼津城本丸址の石碑、下の石垣は発掘調査で見つかった三枚橋城時代の石垣である

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本丸跡と伝わる中央公園にも、目立った痕跡は残っていない

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旧東海道の川廓通り 狩野川と沼津城の外堀に囲まれた特異な土地だった故、このような名前がついたと言われる、外堀は埋められ、郭は削られ、狩野川には堤防が造られた今、当時の様子を伺うことは出来ない

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発掘調査で見つかった 三枚橋城時代の石垣

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真田城

訪問日 2017年3月21日
所在地 神奈川県平塚市
丘城
築城者 佐奈田義忠
築城年 平安時代末期(1394年~1428年)

神奈川県平塚市にある真田城
真田・・・?信濃真田家となにか関係あるのか?と思い城メグの口コミを見てみると


実はここが「真田発祥の地」なのじゃぞ!

というコメントが、というわけで俄然興味がわいてきたので2城目はここにすることに


真田城は三浦家一族、岡崎義実の嫡男、岡崎義忠がここ佐奈田の地を領し砦を築いたことが始まり。
義忠はその後土地の名前から佐奈田与一義忠を名乗る。
その後、義忠は父の岡崎義実や叔父の三浦義明と共に伊豆で挙兵した源頼朝に味方し山木館襲撃などに参加したのち、1180年8月23日の石橋山の戦いで10倍近い戦力差がありながら平家相手に善戦し、討死。
その後真田城は義忠の嫡男、岡崎実忠が継いだらしいのだが、鎌倉幕府成立後の1213年、頼朝亡き後に起こった執権北条家に対する反乱である和田合戦に巻き込まれて子共々戦死したようである。(なお和田氏は佐奈田氏の同族である)
最もこのとき岡崎氏や佐奈田氏がこの佐奈田の地を治めていたかどうかは不明である、また義忠の次男盛実は土佐中山城を治め中山盛実を名乗っており、佐奈田氏自体は義忠1代で断絶している。

室町時代の真田城は扇谷上杉家(もしくはその配下にあった上田氏や相模三浦氏、駿河大森氏)の砦として機能していたと思われる。
1495年頃、大森藤頼が伊勢盛時(北条早雲)によって居城小田原城を奪われるという事件が発生、藤頼は縁戚にあたる三浦義同の支援を受けて実田城(真田城のこと)に逃れ戦ったと言われるが、伊勢氏の侵攻に破れ真田城にて自害したと言われる。
また、扇谷上杉家の家臣で相模国守護代の上田氏の居城(?)として整備されたとも伝わるが詳しくは不明。
1510年 上田氏当主の上田政盛が伊勢盛時の調略により権現山城にて挙兵し伊勢氏に寝返ったが、山内、扇谷両上杉家によって攻められ滅ぼされている。このとき山内上杉家によって実田要塞が攻められた記録があるため。少なくとも上田氏の支城として機能していたとは思われる。
その後は扇谷上杉氏、北条氏の領地となったと思われるが不明、おそらく廃城になったと思われる。

とまぁ、調べてみると以外にも歴史のある城郭であったことが伺える
さて、口コミにもあったここが真田発祥の地であるとのことだが、どうやら地名として「真田」が使われたのがここが一番最初で、全国各地にある真田という地名はここが由来と考えることができる。というものらしい。
しかしここは元々「佐奈田」という地名であり、室町時代には実田、後に当て字で真田が使われたと言われているので実際にここが由来になったかどうかはわからない。
もちろん真田幸村らで有名な信濃真田氏と佐奈田氏が関係があったとは考えにくい
そもそもここが「真田」の当て字が使われるようになったのが、江戸時代に流行った軍記物により「佐奈田与一義忠」の「佐奈田」が「真田幸村」の「真田」と混同され、しばしば錦絵で「真田与一義忠」として描かれていたことが由来とも考えられ、むしろ向こうが本家の可能性まである。

そんな真田城であるが現在は開発によってほとんど痕跡は残っておらず、城跡にある天徳寺にわずかに残るのみである

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道路からみた真田城址
少し小高い場所に建っている

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天徳寺1574年に北条家臣の鈴木隼人が建造したお寺らしい

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天徳寺の中に佐奈田与一義忠を祀った与一堂がある

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与一堂 なぜか近寄るとセンサーが作動し警報機がなる。なんで・・・?

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どうやら墓地の向こうに見えるのが土塁の跡らしいと後日の机上調査の際に気づいた


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天徳寺にあった水子地蔵尊

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真田学校なるものがあったらしい

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ついでに近くにある真田神社にも参拝した
こちらも佐奈田義忠を祀る神社である

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足柄城
  • 訪問日 2017年3月14日
  • 所在地 静岡県駿東郡小山町/神奈川県南足柄市
  • 山城
  • 築城者 北条氏綱?
  • 築城年 1536年?
記念すべき第1城目は足柄城です
足柄城は以前も行ったことがあったのですが、徒歩で行く場合は御殿場線の足柄駅(小田急小田原線の足柄駅とは27kmほど離れる別の駅です)旧矢倉沢往還の峠道をしたすら登ることになります
結構時間かかった覚えありますが正確な時間まではちょっと覚えてないですね…

矢倉沢往還は昔の東海道にあたり、平安時代 在原業平で有名な伊勢物語や更級日記の時代に彼らが通った道はこちらの矢倉沢往還でした、東海道が箱根を経由するルートになった江戸時代には こちらのルートは足柄街道と呼ばれ、足柄に関所が設けられてます

さて、足柄城はその矢倉沢往還の足柄峠に位置し、街道を巻き込む形で築城されています
元々は大森家の砦として機能していたものを、後北条家の2代目当主の北条氏綱が1536年頃に対駿河への備えとして築城した模様

以下Wikipediaの記事により

足柄城は大森氏により築かれたとみられ、その後天文5年(1536年)頃に北条氏綱により改修された見られるが、正確なところはわかっていない。天文24年(1555年)に北条氏康がこの城に改修をおこなったとされ、これは氏康が三田郷(神奈川県厚木市)の百姓に足柄城普請の人足を出させることを命じた記録からわかっている。

永禄11年(1568年)に甲相駿三国同盟武田信玄の駿河侵攻により破棄されると、この城の防衛上の重要性が増したことから、永禄12年から元亀2年(1569年~1571年)にかけて、大幅な改修を行っている。

武田氏滅亡後は、豊臣秀吉と対峙するようになり、天正15年(1587年)には北条氏光を城番とし大規模な改修を施し、天正18年(1590年)に小田原征伐が勃発すると、北条氏忠をこの城の守将として配置した。氏忠は山中城静岡県三島市)が落城するを聞くと小田原城に退却し、残された守備隊は豊臣方の井伊直政の攻撃をうけ、本格的な戦闘が行われること無く、この城は落城している
足柄城は足柄駅より静岡・神奈川県78号御殿場大井線を暫く登って行ったところにあります。徒歩で行く場合、旧矢倉沢往還(足柄街道)を登り徒歩1時間半〜2時間ほどかかると思います
車だと麓の足柄駅から15分ほど、県道とは言え道が細く 俗に言う酷道、険道なので注意が必要です また冬季はチェーン規制が引かれます

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本丸

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本丸からは富士山が見えます

他にも空堀などは見れますが、保存状態がそれほどいい訳では無いです

初めまして、たまそらです

突然ですが 発見!ニッポン城めぐりというガラケー時代からある位置ゲーを初めてみました

このゲームは全国にある3000の城をGPS機能を使い攻略していくというもので、全国制覇には自らが移動して攻略していく必要があります

実は以前もこのゲームをやっていたのですが、1500城ほど攻略した所で飽きて、ここ数年放置してたらそのままログイン出来なくなっていました

仕方ないので、最初から始めよう、ということになったのですが前回と同様したすらポチッって攻略していくのも味気ない

そうなると、これしかない

3000城全てにリアル登城してみればいいんだ

今まで電車で移動して攻略していた城
位置ゲーとは本来そういうゲームだから仕方ないといえば仕方ないのだが、やはりその城にちきんと現地まで行って リアルで登城しなきゃ本当の攻略にはならないのではないのか?

そんなことを考えまして、リアル3000城登城を始めることにしました

今のところ、やってる人はいない模様
これはやるしかない…

正直何年かかるか全く検討も付きませんが、頑張っていこうと思います

ちなみに現在 日本100名城を98城、静岡の城を約60城ほど、その他苗木城、高田城、高島城などの全国の著名な城は登城した事あるので 200城ほどは行ったことあるはず
とはいえ1度それらの城もリセットし、もう1回訪ねることにしようと思います

目標はもちろん3000城登城ですが、それは気が遠くなりますので、とりあえずは今年のうちに100城を目標に頑張っていこうと思います

それでは、これからよろしくお願いします

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