鶴ヶ岡城
- 訪問日 2018年4月7日
- 平城
- 築城者 大宝寺氏 酒井氏
- 築城年代 南北朝時代
- 主な城主 大宝寺氏 上杉氏 最上氏 酒井氏
本当は米沢から新潟に抜けて村上城に行くつもりだったんだけど、気が変わってそのまま日本海側に抜けて鶴岡にやってきました。
米沢を出たとき、「なんか雲行きが怪しくなってきたなぁ・・・」と思ったら案の定雨がパラパラ・・・
鶴岡駅着いたときに一旦雨が弱まったから、これなら行けるかな?って思って歩いてたら土砂降りに遭いびしょ濡れになりました。
そんなびしょ濡れでテンション下がったからなのか、写真の枚数が少なかった。許して。
石垣・・・なのか?
堀
堀、アヤメが咲くみたいだね
荘内藩創立400年まで、あと4年
荘内藩は、元々最上藩の領地だったが、最上騒動で最上家が改易された1622年に最上領を分割し成立したので、確かにあと4年で400年だ
鶴ヶ岡城の本丸には荘内神社がある。米沢城の上杉神社と同様に、明治にできた藩祖神社である。
荘内神社の社務所で『続・日本100名城』のスタンプが押せる。巫女さんが可愛かった。
城跡を示すものがないなぁ・・・と思ってたらあった
土塁がメインのお城のようだ
鶴ヶ岡城の起源は南北朝時代、鎌倉御家人武藤氏の血を持つ大泉長盛が「大宝寺城」をこの地に築城したのが始まりと伝わります。以下、大泉武藤氏は大宝寺武藤氏を名乗り、戦国時代を迎えます。
大宝寺家はその後尾浦城に本拠を移しましたが、支城として機能し、大宝寺家の滅亡後は上杉家、関ヶ原の後最上家の城となり、この時大宝寺城から鶴ヶ岡城に改名されましたが、最上騒動の後に信濃松代城から譜代大名の酒井忠勝が転封され荘内藩が創立しました。
荘内藩には有名な話がある
転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が固い。これは本間光丘による藩政改革に端を発している。この藩政改革以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲した。領民もこれに感謝の念を抱いていた。このため、他藩にはあまり類のない、領民の運動による三方所替えの危機回避や、戊辰戦争後の藩主召還の献金などが行われたのである。(wikipedia)
なんと領民が酒井家の転封に対し幕府へ反対運動を行ったという前代未聞に事が起こったのである。
じつはこの事件、「天保義民事件」と呼ばれているのだが、この事件には裏があり、時の将軍徳川家斉の子が川越藩の松平斉典の養子に入る見返りに、川越藩が豊かな荘内藩に目をつけ、酒井家を長岡へ転封させ、自らが荘内藩を治めようと工作していたという事情があり、酒井家は「自らになのも落ち目がないのに減封される」という事態になっていた。それを聞き領民が立ち上がり、やがて裏事情を知った諸大名から幕府への批判が相次ぎ、やむなく転封の話を中止にしたということであった。
どちらにせよ、領民が幕府に直訴、しかも藩主を擁護するなど、異例のことであり、幕府役人からも賞賛されたという。いかに酒井家が当時の領民に慕われていたことが窺える。
鶴ヶ岡城のスタンプ
荘内神社の御朱印
右のものが通常時の御朱印、左が春季限定御朱印
【アクセス】
JR羽越本線鶴岡駅から庄内交通バス「湯野浜温泉方面」行きで約10分「市役所前」下車徒歩約2分(公式情報)
鶴岡駅から徒歩で20分(実測)
途中雨が土砂降りになってきて走ったのもある気がしますが、それでも途中観光案内所よったり、コンビニ寄ったりしたうえでこの時間なので、思ったより駅から近いっていう印象でした。