たまそら登城録

カテゴリ: 都道府県別

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宮尾城
  • 登城日 2019年3月24日
  • 広島県廿日市市宮島
  • 平山城
  • 築城年代 不詳
  • 改修年代 1555年
  • 主な城主 毛利氏 己斐直之
宮尾城は世界遺産「厳島神社」のある宮島にかつてあった城
毛利元就が陶晴賢を寡兵で破った「厳島の戦い」の舞台で 戦の前に毛利元就が築城したと伝わるが、実際にはそれ以前から砦は存在していて、それを改修したのが真実である

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JR西日本フェリー宮島桟橋から徒歩5分
参道からそれて階段を登るとちょうど鹿が降りてきた

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鹿さん ちょっと横通らせて

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石垣?

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要害山が宮尾城の主郭となっている

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本丸
すぐ下に二の丸があり、神社が立っている
写真撮ったはずなのになぜか消えてた

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深沢城
  • 訪問日 2019年3月22日
  • 静岡県御殿場市
  • 平城
  • 築城年代 16世紀初頭?
  • 築城者 深沢氏? 今川氏親?
  • 主な改修者 武田家
  • 主な城主 深沢氏? 北条綱成 駒井昌直 徳川家

久しぶりの更新になります
あれからお城は沢山回ってるのですが、そもそもブログを更新する時間を取れないという事態に陥りました

そもそも、お城の歴史を取り扱う上で、その机上調査でかなりの時間を取られてしまい、結果的にブログの更新が遅れていました。
そのため、ブログの更新を週1、2回(水曜日と日曜日を予定)程度に抑え、情報量を減らし、むしろ現在の城跡の様子や写真をメインとすることにします


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深沢城は静岡県御殿場市にあるお城です
深沢氏の館跡が元となったと言われるが不詳
16世紀初頭に今川氏親が東への抑えとして築城を命じたと言われる
ところでその頃、この辺りは葛山家の領地であったはずだが、この頃の葛山氏と今川氏の関係についてはよく分かっていない
今川との臣従関係にあると思われながら、独立して動いており 幕府の御伽衆に並んだり伊勢盛時の伊豆討ち入りに加担したり、武田氏と縁戚関係になったり、一時的に北条に味方していたりよく分からない
そもそも深沢氏というのが葛山氏側の資料に見えてこない この周辺の茱萸沢の芹沢氏や神山の武藤氏 一門である藤曲氏や竹之下氏の名前は出てくる中、これらの領地に囲まれた場所にある深沢城は葛山氏とは独立して今川家の家臣であった深沢氏が城代を務めていたのかもしれない

長らく今川の城だったが、甲駿相三国同盟の破綻後に武田家に占領、これと前後して葛山家の葛山氏元は一門で武田家と縁を結んでいて家臣として動いてた御宿友綱の誘いで武田家に寝返っている
その後 北条氏康・氏政親子に攻められ落城、北条綱成が城主に入るが 1670年後に武田家に攻められ、兵糧攻めと土竜攻めにあい落城 以後武田家滅亡まで武田家の城として改修を受けた

その後徳川の領地になったが、武田式城郭の痕跡を色濃く残す城となっている

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三日月堀

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周囲に空堀が彫り巡らされている
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馬出し
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三の丸、だったかな?
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二の丸
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本丸前の空堀
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本丸




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平形館
  • 訪問日 2018年4月7日
  • 館・平城
  • 築城者 不明
  • 築城年代 鎌倉時代?
  • 城主 平賀氏?(平形氏?)
平形館は藤島城の支城
鎌倉時代に造られたとみられ、藤島城を本拠としていた土佐林家の家臣であった平賀氏もしくは平形氏の館であったとみられます。
平賀氏は土佐林家、続いて大宝寺家の滅亡後もこの地に残り、庄内が上杉家の領地になった当時の当主、平賀義可は太閤検地に反対し、川南衆を率いて藤島城に立てこもったとされている。(川南一揆)

なお、ここ平形には奈良時代に出羽国府が置かれたと言われているが、痕跡は残っておらず、奈良時代まで遡る遺跡も発掘されていない。

平形館には土塁と堀があったとされているが、現在では一部の土塁のみ現存している


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土塁


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館跡
畑の中にある
すぐ横には羽越本線が通っている


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藤島城
  • 訪問日 2018年4月7日
  • 山形県鶴岡市
  • 平城
  • 築城年代 和銅年間(708~714年)?
  • 築城者 不明
  • 主な城主 土佐林氏、大宝寺義興、新関久正
鶴ヶ岡城を訪ねた後、時間があったので近隣の城を訪ねることに

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場所は羽越本線藤島駅、意外にも有人駅である
この駅の近くには藤島城と平形館の二つの城がある。どちらも駅から近くアクセスも良好である

さて藤島城、その歴史は古く、なんと奈良時代まで遡る。
和銅年間(708~714年)に出羽国府が平形に置かれ、その国府に附属した施設が元であったと推測されています。
中世城郭としての存在が確認できるのは鎌倉時代、1193年に土佐林次定が藤島城を居城とし、以下土佐林氏の居城として機能していきます。
土佐林氏は代々羽黒山の別当職を務めていた家柄で庄内では大宝寺氏と対等の勢力を持っていたが1477年に大宝寺家との戦いに敗れ没落した。
その後の土佐林氏の行方は不明だが、土佐林氏の末裔、土佐林禅棟が室町時代末期に大宝寺家の重臣として活躍しているので大宝寺家の傘下に入ったのだと想像できる

土佐林禅棟は大宝寺晴時、義増、義氏の3代に仕え、筆頭家臣として上杉家との和睦交渉や幕府への工作を行っていたが、義氏の代に対立、1571年に義氏に居城藤島城を攻められ戦死、土佐林家は滅亡した。
その後、藤島城には義氏の弟、義興が入った。しかし、1583年に大宝寺義氏が家臣の謀反により自害(諸説あり)すると義興は尾浦城に入り大宝寺家を継いだので、藤島城には家臣の小国彦次郎が入ったようだ。
その後義興も最上家の援助を受けた旧臣に敗れ自害、大宝寺家が滅亡。その後は上杉、最上領となったようだ。
最後の城主は最上家家臣の新関久正、最上騒動で最上家が改易され廃城となった。

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藤島城跡の碑

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土塁
本丸には八幡宮が建っている

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土塁は本丸を囲うように築かれている

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こちらも土塁、この先にも土塁が続いていたようだが、農業高校の敷地に組み込まれ残存していない

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校門のまえに土塁っぽいのが残っていた

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藤島城は平城であったが、堀や川を巧みに利用した要塞であった
この藤島川も堀に組み込まれていた
対岸の学校が藤島城跡

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川を挟んだ対岸にある「金ノ郭」跡。いわゆる出丸である。かつては土塁もあったようだが残存しない。




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長浜城
  • 訪問日 2016年4月1日
  • 海城(平山城?)
  • 築城年代 1579年頃?
  • 築城者 後北条家
  • 主な城主 梶原景宗 大川兵庫
今回は以前登った城を紹介します
いや本当は全部一から訪ねようと思ったんですが
死ぬまでに3000城全部最初から訪ねるのは無理
ということに今更ながら気づいてしまったので前に行った城で写真が残っているものは登城したことにすることにします。
まぁそれでも150城近くは再訪する必要がありそうですが・・・

というわけで、今回は伊豆長浜城です
私がメインで書いてるブログ村雨哀歌の方で「沼津市内浦長浜の古道」として紹介していたんですが、今回は城に絞って紹介します。

長浜城は北条家が武田水軍への備えとして築いた海賊砦であったと伝わっています
1579年、武田勝頼によって三枚橋城が築城され、これによって戸倉城より狩野川を伝い駿河湾とを結んでた北条方の水路が完全の閉ざされていしまいました。
これを受けて同年に北条家が長浜に城を築き対抗、北条水軍を率いていた紀伊国出身の客将、梶原備前守景宗が長浜に入り、翌年には武田海軍との間で駿河湾海戦が起こりました。
駿河湾海戦の勝敗は不明。だがその更に翌年1581年に武田家は滅亡した。
小田原征伐では、北条水軍は小田原城、伊豆水軍は下田城に集結した為、在地土豪大川兵庫を中心とした地元住民が城に立てこもったと伝わる。(地元土豪が自ら城に閉じこもったのも民政を行っていた北条家ならではですね)
小田原征伐の後は廃城、大川兵庫の末裔は現在でも長浜の地に住んでいる・・・というか
ラブライブサンシャインの黒澤姉妹の家のモデルがその大川家です・・・
ていうか、長浜城も聖地のひとつです・・・
なんてこったい・・・このブログでもラブライブの聖地ネタがでるとは・・・



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いきなり入口が封鎖・・・
今思えばこちらの廃遊歩道をネタにした方がおもしろかったかな・・・?

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長浜城周辺の地形図がありました。
これを見ると、長浜城があった場所はかつて陸繋島であったことが窺えます。

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長浜城の入口は観光用に駐車場が設けられていたりします。

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新しい遊歩道

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曲輪
・・・なんの曲輪だったっけ?

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さっきの鳥居はこれの為?


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第三曲輪


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小さな城だがよく遺構を残している


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主郭


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堀切だったか竪堀だったか忘れた


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晴れてる日なら、向こうに富士山が見える


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安宅船の模型が下の広場にある
かつてはあの位置は海だったので、あのように船が留置されていたことになる

この長浜城の安宅船のレプリカは以前は沼津市立図書館にあったけれど、今はどうだろうか?

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