たまそら登城録

タグ:今川家

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深沢城
  • 訪問日 2019年3月22日
  • 静岡県御殿場市
  • 平城
  • 築城年代 16世紀初頭?
  • 築城者 深沢氏? 今川氏親?
  • 主な改修者 武田家
  • 主な城主 深沢氏? 北条綱成 駒井昌直 徳川家

久しぶりの更新になります
あれからお城は沢山回ってるのですが、そもそもブログを更新する時間を取れないという事態に陥りました

そもそも、お城の歴史を取り扱う上で、その机上調査でかなりの時間を取られてしまい、結果的にブログの更新が遅れていました。
そのため、ブログの更新を週1、2回(水曜日と日曜日を予定)程度に抑え、情報量を減らし、むしろ現在の城跡の様子や写真をメインとすることにします


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深沢城は静岡県御殿場市にあるお城です
深沢氏の館跡が元となったと言われるが不詳
16世紀初頭に今川氏親が東への抑えとして築城を命じたと言われる
ところでその頃、この辺りは葛山家の領地であったはずだが、この頃の葛山氏と今川氏の関係についてはよく分かっていない
今川との臣従関係にあると思われながら、独立して動いており 幕府の御伽衆に並んだり伊勢盛時の伊豆討ち入りに加担したり、武田氏と縁戚関係になったり、一時的に北条に味方していたりよく分からない
そもそも深沢氏というのが葛山氏側の資料に見えてこない この周辺の茱萸沢の芹沢氏や神山の武藤氏 一門である藤曲氏や竹之下氏の名前は出てくる中、これらの領地に囲まれた場所にある深沢城は葛山氏とは独立して今川家の家臣であった深沢氏が城代を務めていたのかもしれない

長らく今川の城だったが、甲駿相三国同盟の破綻後に武田家に占領、これと前後して葛山家の葛山氏元は一門で武田家と縁を結んでいて家臣として動いてた御宿友綱の誘いで武田家に寝返っている
その後 北条氏康・氏政親子に攻められ落城、北条綱成が城主に入るが 1670年後に武田家に攻められ、兵糧攻めと土竜攻めにあい落城 以後武田家滅亡まで武田家の城として改修を受けた

その後徳川の領地になったが、武田式城郭の痕跡を色濃く残す城となっている

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三日月堀

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周囲に空堀が彫り巡らされている
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馬出し
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三の丸、だったかな?
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二の丸
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本丸前の空堀
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本丸




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長久保城
  • 訪問日 2018年3月22日
  • 所在地 静岡県駿東郡長泉町
  • 平山城
  • 築城者 竹之下頼忠?
  • 築城年 平安時代末期頃〜鎌倉時代初期?
4城目は長久保城です
Wikipediaによると

築城時期や築城者は不明であるが、大友親頼の三男親政が、永享11年、足利持氏の滅亡により、今川氏に仕え駿河国駿東郡長久保を領していたため一説には長久保氏の築城とも言われる。

戦国時代、今川氏、北条氏、武田氏との間で争奪戦が繰り広げられた。

天正10年(1582年)、武田氏滅亡後は徳川家康の持城となった。その後関東に家康が移封された後は、中村一氏の持城となったが、慶長5年(1600年)に移封されると長久保城は廃城となった。
とのことであるが、現地の石碑によると 現在の静岡県小山町竹之下を領していた竹之下頼忠が北条氏や牧氏への備えとしてここに砦を築いたのが始まりとなってる。
城メグ公式でも築城は竹之下頼忠となっているが、解説はWikipediaのコピペとなっており訳が分からない
ていうか竹之下頼忠ってだれや って少し調べてみたんだが 竹之下にて館を構え、興雲寺を建立したとしか分からない
更に調べてみると大森頼忠なる人物を発見、この竹之下頼忠が大森頼忠と同一人物であるようである

大森頼忠は系図上大森家の初代当主と思われる大森親家の嫡男とされ、大森家2代目の当主とされる
大森氏は駿河国大森(現在の裾野市深良付近だと思われる)の藤原伊周の子孫とされる藤原親家が大森氏を名乗ったことが始まり
その後大森氏は駿東郡に勢力を強めていったのだが 竹之下頼忠=大森頼忠説を取ると 既に親家の子の代で既に足柄まで進出していたことになる そして長久保城が竹之下頼忠の築城となると既に大森氏の支配範囲が駿東郡全域に及んでいた可能性がある

故に竹之下頼忠の築城説を取れば大森氏の南に領地を接していた北条得宗家への備えとしで築かれた城であったと思われる

しかし実際に鎌倉時代に大森氏と北条氏が争った話は聞かないし、むしろ大森氏やその庶流葛山氏は有力御家人として重用されていた節がある

その後 室町時代に起こった永享の乱により関東の動乱に動じて駿河大森氏は西相模に勢力を伸ばしていき以後小田原を拠点としていくのだが、同時期、同じく永享の乱により大友親政が長久保に入り長久保氏を名乗ったようである。
しかし長久保氏のその後の行方は調べたところ分からなかった
どうやら長久保氏は今川氏の没落と共に嫡流は常陸国に土着し、江戸時代に農民の出にも関わらずその後水戸藩の地理学者として活躍した長久保赤水はその末裔を自称している
とはいえ、その後の今川氏の家臣の中に長久保氏の名前が今のところ見つからない、もう少し調査を続けたいが、そう一つの記事に長時間書けるわけにはいかない(既にこの記事書くのに丸1日かかってる)のでここあたりで机上調査を終えたいと思う

長久保氏は領したと言われる1440年頃であるが 1480年頃に大森氏庶流で駿東郡の国人衆でもある葛山氏が沼津郷への侵攻の際に長久保城を拠点としている

その後1537年頃の北条氏綱の駿河侵攻の際に長久保城を改修しているようである

戦国武将列伝Ω(https://senjp.com/nagakubo-jyou/)様によると

1545年7月下旬、今川義元関東管領上杉憲政と内通し、北条氏綱(北條氏綱)に奪われていた東駿河に侵攻。(第2次河東一乱)
この時、北条勢の吉原城し自落し、北条幻庵(北條幻庵)が守る長久保城を攻撃したため、北条氏康は駿河に急行した。
そこを、上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏が大軍を持って9月26日に北条綱成が守る河越城を包囲し、北条氏康(北條氏康)は東西から攻撃を受けて、絶対的なピンチに陥いる。
そのため、北条氏康(北條氏康)は長久保城を明け渡す条件にて、武田信玄を仲介して今川家と10月下旬に停戦。
11月初旬に太原雪斎と誓詞を交して、北条氏康は河越城へと転戦した。
その後、長久保城は再び北条家の支配となるも、元亀年間(1570年~1573年)から1582年までは、1571年に深沢城の戦いで勝利した武田信玄武田勝頼が長久保城や沼津・三枚橋城を領有している。
武田家滅亡後は徳川家の領地になり、牧野康成が城主として入っている
小田原征伐の際には長久保城で家康と秀吉が謁見し、軍議を開いたとの逸話もある

徳川家康の関東転封後は中村一氏が城主として入り、関ヶ原の後は廃城となった模様である

長久保城は黄瀬川の渓谷の西岸の小高い山に建っており天然の要塞出会ったことが窺える
しかし開発によって殆どその痕跡は残っていない

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長久保城跡の石碑

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長久保城の跡地にたっている城山神社

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城山神社自体は長久保城の階段状の曲輪があった所に経っているようである
裏に見えているのが曲輪なのかもしれない

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土塁もしくは曲輪の跡

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主郭は国道246号線に飲み込まれて存在しない

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