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藤島城
  • 訪問日 2018年4月7日
  • 山形県鶴岡市
  • 平城
  • 築城年代 和銅年間(708~714年)?
  • 築城者 不明
  • 主な城主 土佐林氏、大宝寺義興、新関久正
鶴ヶ岡城を訪ねた後、時間があったので近隣の城を訪ねることに

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場所は羽越本線藤島駅、意外にも有人駅である
この駅の近くには藤島城と平形館の二つの城がある。どちらも駅から近くアクセスも良好である

さて藤島城、その歴史は古く、なんと奈良時代まで遡る。
和銅年間(708~714年)に出羽国府が平形に置かれ、その国府に附属した施設が元であったと推測されています。
中世城郭としての存在が確認できるのは鎌倉時代、1193年に土佐林次定が藤島城を居城とし、以下土佐林氏の居城として機能していきます。
土佐林氏は代々羽黒山の別当職を務めていた家柄で庄内では大宝寺氏と対等の勢力を持っていたが1477年に大宝寺家との戦いに敗れ没落した。
その後の土佐林氏の行方は不明だが、土佐林氏の末裔、土佐林禅棟が室町時代末期に大宝寺家の重臣として活躍しているので大宝寺家の傘下に入ったのだと想像できる

土佐林禅棟は大宝寺晴時、義増、義氏の3代に仕え、筆頭家臣として上杉家との和睦交渉や幕府への工作を行っていたが、義氏の代に対立、1571年に義氏に居城藤島城を攻められ戦死、土佐林家は滅亡した。
その後、藤島城には義氏の弟、義興が入った。しかし、1583年に大宝寺義氏が家臣の謀反により自害(諸説あり)すると義興は尾浦城に入り大宝寺家を継いだので、藤島城には家臣の小国彦次郎が入ったようだ。
その後義興も最上家の援助を受けた旧臣に敗れ自害、大宝寺家が滅亡。その後は上杉、最上領となったようだ。
最後の城主は最上家家臣の新関久正、最上騒動で最上家が改易され廃城となった。

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藤島城跡の碑

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土塁
本丸には八幡宮が建っている

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土塁は本丸を囲うように築かれている

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こちらも土塁、この先にも土塁が続いていたようだが、農業高校の敷地に組み込まれ残存していない

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校門のまえに土塁っぽいのが残っていた

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藤島城は平城であったが、堀や川を巧みに利用した要塞であった
この藤島川も堀に組み込まれていた
対岸の学校が藤島城跡

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川を挟んだ対岸にある「金ノ郭」跡。いわゆる出丸である。かつては土塁もあったようだが残存しない。