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背後の山が神山城の跡と伝わる

神山城
  • 訪問日 2018年3月25日
  • 所在地 静岡県御殿場市
  • 山城
  • 築城者 神山親茂?
  • 築城年 鎌倉時代初頭?
今回は発見!ニッポン城めぐりに収録されていない城です
ニッポン城めぐりでは3000城もの城が収録されているので、メジャーな城からマイナーな城まで網羅している優れものなのですが、それにすら収録されてないとなるとマイナーの中のマイナーな城、当然情報もほとんどありませんでした

何を隠そう、中の人がこの地区の人間なのについこの間までこの城の存在を知らなかったですし、他の人に聞いたところ「なんとなくこのあたりに城があったとは聞いたことがあるかもしれない」という曖昧な情報しか分かりませんでした

神山城はおそらく大森氏庶流の神山氏によって築かれた城だと思われます 中世豪族の館として、葛山城(こちらも大森氏庶流葛山氏の居城)等と同様に平時に使う館と詰城の二つが存在しています

まず平時に居城とする館から、便宜上「神山氏館」とでもしときましょうか

大字高内(たこうち、と読む)の小字塚村に位置するこの場所がどうやら神山氏館らしい

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とはいえ、これしかそれっぽい痕跡が無い…

土塁や堀さえないとは思わなかった……

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ここに館があったらしい

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曲輪の跡? 不明

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神山氏館跡の西側にある山が神山城跡と伝わる
とりあえず登ってみるけどなにもない

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さっきの場所、上から見ると不自然に平?
もしかして曲輪の跡だった?

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頂上に来た
頂上は整地されてる感じあるのでおそらく本丸跡だと思われる

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なんかある

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昭和七年五月 富士岡村神山 神山保三郎建
神山?もしかして大森神山氏の末裔なのか?

さて、ここが頂上のようなんだが、特に何もなかったな・・・
反対側はどうなってるんだろう・・・

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!?!?!?!?!?
なんか公園にでたぞ・・・
いやこんな公園あるだなんて聞いたことないんだが・・・


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とりあえず展望台っぽいとこに登ってみた
展望台は腐りかけて非常に危ない

さて、登ってみて気づいたんだがここから麓に向かって階段状に曲輪のようなものが見える
流石に原形通りとは思えない(流石にこんなに大きな曲輪は必要ないだろう)だが、公園造営に大幅な地形改良を施したとも思えないので、ここに階段状の曲輪があったと思っていいだろう(おそらく複数の曲輪を平らに施した結果3段の曲輪だけ残ったのだと思う)

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反対側には堀切っぽいのがある、さっきの場所を曲輪と仮定するならば、やはりここが主郭と考えていいかな

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二ノ曲輪(仮)


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主郭と二ノ曲輪との接続部、想像力を働かせば馬出にも見えなくはない・・・

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主郭
右側に先ほどの謎の祠がある場所にでる


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三ノ曲輪、こちらは程よく狭くそれっぽい
大手曲輪とかの類だったのか?


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こちらにも展望台があった

ここから下ると、神山小学校の脇にでる、公園造営工事で道を広げたようで俗に言う虎口のような構造は見えない
神山城については、確かな資料は残っておらず、城の存在も地元の伝承にすぎないようだ
どうやら「静岡県の中世城郭跡」(静岡県教育委員会発行)という書籍に載っているようだが、まだ確認できていない

上記書籍を元にしたshizuoka城と戦国浪漫様によると

天文19年(1550)及び天文22年に神山の土豪武藤氏に対し、武田氏(葛山氏か)が神山宿と伝馬に関する朱印状を宛行っている。この武藤氏に関係する城であろうか。また群書系図部集大森葛山系図には神山七郎親茂、神山茂綱妻、神山三郎入道の姓氏が記載されている。この神山氏関係の城館であろうか。
本城は箱根外輪山西麓末端の神山町屋、高内集落をのぞむ突出した丘陵頂部、標高317.1mの小字塚村に位置する。裾部よりの比高30mあり、背後の丘陵とは低く狭い鞍部できりはなされ、北側は堀状の渓流で画されている。西側も渓流で区切られ、南側に高内の集落を抱えている。しかし遺構らしいものは何もない。東側に方100mの平坦な空閑地があるが、ここを「中屋敷」といい、居館跡らしい場所となっている。一隅に伝承不明の五輪塔がある。

とのことで、武藤氏居城の説も載せている。
武藤氏に関して、残念ながらこれ以上の詳しい情報は見つからなかった。もしかしたら、同じく御厨(御殿場近辺の室町時代の呼称)の豪族と伝わる芹沢氏と共に、葛山家の家臣であったのかもしれない。
 というか、さりげなく神山宿の存在に言及してやがる・・・この時代の旧東海道にあたる矢倉沢往還は神山城の麓で黄瀬川を渡り、そこには橋が架かっていたと言われる。その付近に宿場があったのだろうか。

 また、武藤氏に関しては落城の際(1568年の葛山城落城と共に北条方に落とされた?)の城主の墓と伝わるものが城山の南にあったらしいが判明したのが机上調査の時だったので未確認、こんど確認してきます・・・

 室町時代以前、平安末期から鎌倉初期の時代にはこの一帯は大森氏一族が納めており、大森家初代当主大森親家の弟、親清の子、親茂が神山に土地を与えられ神山氏を名乗ったと言われ、この神山親茂の館が神山城の起源であると思われます。裾野市から小山町にかけての一帯には大森氏一族の館や城跡が数多く残っており、これもその一部だと思われます。
 特に神山城が位置する場所は、大森氏の居城大森城(城メグ未収録、裾野市深良にあった)の直ぐ北に位置する要塞であった。また、城と戦国浪漫様の記述のように、三方を渓流で囲まれた天然の要塞であった。

 その後も神山氏が代々治めていたようだが、おそらく室町時代の禅秀の乱に動じて大森氏が西相模への支配を確立し、その後大森氏庶流葛山氏により駿東郡で台頭しだした頃に城主の立ち替わりが起こったのだろう。

 廃城時期は不明、おそらく武田家滅亡後に葛山城と共に廃城されたか、武藤氏が落城後にそのまま放棄したかのいずれかであろう。

 最後に、地元民すら知らなかったあの公園ですが・・・
 どうやら6年程前につくったけどだれも遊ばなかったから放置されたみたいです・・・
 本題とは離れてしまうのでこちらでは紹介しませんが、またどっかで紹介するかも・・・
 ちなみに地元民の証言によると、地形改良はそんなにしてないらしいので、たぶんあれが曲輪の跡でいいのかな・・・?